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2007年4月

2007年4月29日 (日)

平日。午前10時のカフェにて

先週、平日の午前10時に6月に行なうセミナーの講師との打ち合わせのために、四ツ谷アトレの中にあるパン屋「Paul」の併設のカフェに行った。

店内に入った途端、何だか異様な感じを受けた。

なに???

店内を見回すと、談笑中のお客さんのほとんどが、グループは別々でもあるひとつの層であることに気づいた。

女性、30代から40代。控えめな色、デザインながらも高級そうで上品な服。やはり上品なバックに靴。醸し出す雰囲気も似ている。

なぜだかひと目で仕事をもっていない人たちだと分かった。

四ツ谷にはいくつか私立小学校がある。そこへ子供を送ってきたお母さんたちだ。多分だけれど、4月に入学したばかりの1年生のお母さんたちなんだろう。

お母さん同士の情報交換もあるのだろう。話は盛り上がって、ずい分長く店内にはいらっしゃったようだ。

きっと、こういう人たちを世の中では「勝ち組」って言うんだろうなぁ。

平日の午前中に、高級な服に身を包んで、お洒落なカフェでお茶をしながら談笑。

こういうのもよしだと思う。ひとつの生き方だから。

ひとつ気になるのは、皆さんが同じに見えたこと。同じような服と持ち物、髪型。

もともと嗜好が似ているからだとは思えないほど、余りに似ている。マニュアル通りなのか、人と違うとダメだというのか。

あまりに単一で少々悲しい。

単一といえば、「勝ち組」というのも単一の現われだと思う。勝ち負けを判定するには基準が必要だから、その基準を社会で共有していることが前提だ。

ビジネスの世界だったら、たとえば収益が基準として共有されていてもいいだろう。

でも人生にはいろんな「勝ち方」があっていいはずだ。自分が楽しかったり、やった!という達成感があったり、充実した時間を過ごしたり。それなのに、「こうならないとダメ」、「こうなることが全ての人たちの理想だ」とばかりに煽り、「この基準を満たすと勝ちですよ」として行動を制限する。

日本はとても息苦しい。

お母さんたちが同じように見えたのは、「勝ち組」としての基準を生きているからかもしれない。

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習いごと遍歴・私の場合

社会人になってから十数年経ちました。 先日、自宅の本棚を整理していたら、ずい分以前に行った習いごとで使った本が目に留まりました。

はて?私は社会人になってからどれだけの習いごとに手を染めたのかと思い起こしてみました。

英語、イタリア語、デッサン、会社法、デンマーク語、狂言(講義)、数学、ピアノ、フルート、リコーダー、テニス、水泳、太極拳、気功、コーチング、スポーツクラブ通い、そして現在の本を創るワークショップ・・・

書き出していて、くらくらしてきました。これで全部ではないような気がしますが思い出せません。1日の体験コースやセミナーを含めたら、もっともっとありそうです。

これに費やした金額を出したら、きっと私はげんなりするでしょう。私は、この費やしたお金や時間に見合ったものを得ているだろうか?

習いごとのなかには、仕事や収入に結びつくものもある。それは、投資したものが目に見える形で帰ってくることを期待している。

一方で、習いごとのなかには、それ自体を楽しむものもある。そこには充実した時間か感覚があるはずだ。

私は数々の習いごとから、何を得ていたのでしょうか?

思い出してみると、目に見える形で仕事や収入にも結びつけておらず、また、一部を除くとそれ自体を楽しんでもいなかった私の姿が現れてきます。

では、何のために?

一般的には、習いごとをするのは生活を豊かにするためと考えられそうです。収入にせよ、充実した時間にせよ。

それでは私の生活は豊かになったか? 答えはNOです。今、改めて考えてみて、私は習いごとをまったく別の目的のためにしていたようです。

1つには、自分の豊かさを実感するため。自分が、習いごとにお金や時間を使うだけの余裕があることを自分自身で確認する手段として、習いごとをしなくてはならない。まるで義務のように。

二つ目は、何となく「途上」という感じを得るため。習いごとをしていると、特に勉強といえるものは、自分が向上をしている感じを与えてくれる。今の自分より上に行こうとしている人であるという安心感が得られる。結果として実際に能力や技能が上がれば、本物の向上なのだけれど、ただ安心感を得るためのポーズのためにやっているから、そんなに効果はでない。

もう1つは、自分を演出するため。こんな勉強をしている私、こんな趣味をもっている私。そんな私と見て欲しい。自分がこう見られたいという衣装やアクセサリーと同じこと。 習いごとそれ自体をやりたいのではなく、別のことが目的になっていたから、面白みが分かることもなく、続きもしなかったんだと思う。

今からは、要らない衣装やアクセサリーは横に置いて身軽になって、そして要るもので生きていきたい。今の私には、自分でそれを見分ける目と、要らないものは要らないと言える勇気があると感じます。

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2007年4月24日 (火)

この治療、するのかしないのか決めるのは誰?

現在、治療は外科で受けています。

先月の診察の際、外科のドクターから、

「放射線の照射ができるかどうか、放射線治療科の先生に診察を受けてきてください。」

と言われ、予約をその場で取り診察を受けました。過去に同じ部位に放射線治療を受けているので、2度同じところに照射することは通常は行なわないため、まず可能性を確認するというものです。

放射線治療科のドクターは、

「照射は恐らく可能。ただし過去の照射記録を確認する必要あり。」

ということで、転院前の病院へ記録を照会し、今月の外科の診察を迎えました。

外科のドクターには放射線治療科からの結果は入っておらず驚きましたが、私からどう言われたかを伝えました。そして、今の私の病状で放射線治療を行なうことについて、外科のドクターの見解を確認したところ、次のような返答でこれには戸惑いました。

「普通は現時点ではやらない。」

「ただ、この段階でやった患者が、経験的にこれ以上の転移をしなかった例が多いように思う。」

「科学的には説明がないが。」

「普通はやらないが、患者が強く望めばやります。」

ここにはドクターの意見は感じられませんでした。決めるのは患者で、事実はこうで、僕は勧めているわけではないよ、そんな雰囲気でした。

一方、先月は、放射線治療科で診察を受けることに対し選択をするという雰囲気はなく、ドクターはこの治療をすることを勧めているのだと感じました。やった方がよいと。そこには、主治医としての意見があったように思う。

しかし、今回は勧めているのかすら分からない発言でした。

それなら、先月どうして放射線治療の話を持ち出したのでしょう。

患者は専門家ではない。

だから、ドクターから可能性のある治療を提示されないと、治療法があるのかすら分からない。

「こういう治療の可能性もある。ただし、普通はやらない。そして効果とリスクの可能性はこうだ。そこで、あなたが望むのであればやりましょう。」

提示された上で、選択をするのはあなただと言われるのは分かる。ここには少なくとも主治医として、可能性を提示したという意図も感じられる。

もしかすると、私がドクターのこの治療に対する見解を聞いたから、ドクターは自分の意見を引っ込めたのかもしれない。

私が確認をするようなことを尋ねなければ、患者が決めるのだといわないままことが進んだのかもしれない。

ドクターも大変なのだと思う。

評価が定まっていない治療を勧めて治療を行い、そして何か問題が起きたら、病院やドクター自身がリスクを負うことになる。

自分が決めるなんて考えていない患者も多いだろう。

だれが決めるのかが曖昧なまま、ことが進んでいく。

それが現在の日本の医療なのでしょうか。

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2007年4月22日 (日)

ブログ開始、まで。

本を創るワークショップの課題、「ブログを書いて、自分の文章を公にさらす」を与えられ、2ヶ月強。ずっと抵抗していました。

何に抵抗してたかを観察してみると、自分の枠が観えてきました。

 「最初から完璧にしなくてはいけない」

 「未熟なものを人前に出して、低くみられたくない」

こんな気持ちが抵抗を生んでいました。

かといって、それでは完璧に近づけるよう、未熟じゃなくなるよう、学んでいたかというと何もせず。ただただ、時間だけが流れていっていました。

これって、私のいつものパターンだ。

完璧にしなくてはできないとして、何も進めない。かといって準備や学習もしない。そして、進歩も失敗も結果もなし。

行動をして初めて進歩がある。いくら思いを巡らしていても、コタツに入ってお茶を飲んでいるだけでは何の変化もない。

ここに書いて、こんな自分が居ることを認め、そして、行動に移します。

 

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