2007年5月21日 (月)

人にどう思われるか気になるときは

とても小さな頃から、これを言ったら人にどう思われるか、こうしたら相手はどう思うかを、想像して暮らしていたように思う。子供の頃はそれを相手(特に周りの大人)がどう反応するかを想像して、そして察知して行動することで、叱られることや軋轢を回避する術を身に着けていたんだろう。
これは子供が成長していく上では、程度の差はあれ通る道なのかもしれない。

けれど、大人になってからもずっと、人にどう思われるかを想像してばかりだった。
会話をしているときには、ほとんどいつもいつも、「これを言ったら相手はきっとこう思ってこう返事をするだろう、そうしたら私はこう言って・・・」と、将棋さながら数手先まで読んで会話していた。
ご苦労なことだ。

ここ数年、病気をしたり、年齢も重ねたり、色々あって、諦めがついたのか、会話のなかで四六時中相手がどう思うかは考えなくなった。
コーチングを学んだことも影響していると思う。

ただ、何か少し変化を起こすようなことをしたらどう思われるか、今までと違うことをしたらどう思われるかは、相変わらず想像して、妄想のように膨らんでいく。
「あの人はこう思うかもしれない」
「この人はどう思うだろう」
・・・

そしてどんどん怖さが増していく。

最近、ふと腑に落ちたことがあった。
「人がどう思うか気にしているときの私は、自分に責任をもっていない。」

自分が選択してやったことで起きた結果、言ったことで起きた結果を、全て引き受けるのであれば、だれがどのように思うかを、前もって気にする発想なんてないんじゃないのか? 人がどう思うか気にしているときは、自分の言動が起こす結果を引き受けるのが怖いのだ。

私が決めて私が行動したことだから、どんな結果でも全て引き受ける。

確かに、「あの人はこう思う」かもしれないし、「この人はこう思う」かもしれない。
でも、どう思われても、それを含めて自分が全てを引き受ける。

そう思ったらとても楽になった。

そして、「これは私が決めたことだから、全ての結果を引き受ける」と思ったら、
「人にどう思われるか」なんてことはだんだん気にならなくなってきた。

これから、「人にどう思われるか」がとても気になるときには、自分が何に責任をもつのか、見つめ直そう。
そして、結果を引き受けるかどうか、一度自分に問おう。
そして進めばよい。

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2007年5月13日 (日)

片付け上手への道①

私は片付けが苦手。

クローゼットの中に、置いたままになっている服があったり、デスクの上に置きっぱなしになっている書類、文具があったり。本棚にまで、書類やダイレクトメールが置きっぱなししなっていたりしました。
引越をしてからも、ダンボールを開けただけで、そのまま中身を出して片付けずに1年以上だったり。

でも、片付かないところがあると思えば、とてもしっかり片付いているところもあります。

例えば食器棚。
食器はいつも決まった場所に入っていて、出したままということはありません。
お鍋や調理器具類も、出しっぱなしということはありません。

ちょっと両極端の様相さえあります。

それでは、この違いは何か?と考えてみたら、片付いているところには2つの法則がありました。

 ①片付ける先が決まっている
 ②片付ける場所のスペース ≧ 片付けるものの占める空間

シンプルにこれだけです。
「片付けられない」にも人によってタイプが色々あるのでしょうが、私の場合は片付ける先が決まっていればそこに仕舞うことはできます。
片付かない物・場所は、「どこに何を仕舞うかを決めていない」から出しっぱなしであるか、片付ける先がすでにいっぱいなために、そこに片付けられない(そこに仕舞うと決められないの変型パターン)。

じゃあ、どこに片付けるか決めてしまえばいいのです。
そして入りきらないと判明したら、そこで処分するのか、片付け先のキャパシティーを上げるのかという判断をすればいいのです。

とても簡単でした。

けれどこれまでは、どこに片付けるかを決めるのがまず最初の難関でありました。

これを決められない私だったんですね。

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2007年5月 4日 (金)

NHKの集金トークが変わった?

我が家にはテレビがない。
別にテレビをもたないというポリシーがあるわけではないのだけれど、なんとなくもたないまま十数年経っている。
以前は、今よりずっと狭い部屋に住んでいて、テレビを置くとなんだか圧迫感があるように感じたから、買わなかった。
一度、友達が、要らなくなったからとテレビをくれたけれど、結局そんなには観ず、人にあげてしまった。
今は、テレビを置いても部屋の雰囲気に影響があるほど狭くはないけれど、多分そんなに観ないだろうからと、買い物の優先順位の下位のまま、ずっと過ぎている。

そういう訳で、NHKの集金がやってくると、
「家はテレビはありません」
と言うしかない。
集金の方は、
「そうですか。」
と応えるのだけれど、多分信用されてないだろうなぁという声のトーンを感じる。
何なら部屋の中を見てもらってもいいのだけれど、それはどうやらやってはいけないらしい。

今日、ずい分久しぶりに、集金が来た。
ところが、今回は集金という言葉ではなく、
「NHKですけれど、受信料支払いの手続きに来ました。」
だった。
今回1回限りの集金ではなく、ずっと支払ってもらいますよ、ということか。

私が、いつものように、
「家にはテレビがありません。」
というと、なんと、
「いつ頃、ご購入の予定ですか?」
と聞かれた。

う~ん、驚いた。新しいパターンだ。

最初の台詞といい、これといい、
「テレビは必ずどの家にもあるものだ。」
という前提。

そして、以前の、
「集金に来ました。」
より強く、
「払ってもらいますよ。」
という雰囲気を感じる。

先の問いには、
「もう十年以上、もってませんから、購入予定といわれても。」
と答えたら、
「そうですか」
とお引取り願えた。

このトークはこの集金の方だけなのか、それともNHK全体でマニュアル化されているのか? 「いつ頃購入?」と聞けば、テレビがないと嘘をついている人は怯むのだろうか?

集金の人も大変なんだろうけど、テレビをもたない人もいることも認めて欲しいなぁ。

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2007年4月29日 (日)

平日。午前10時のカフェにて

先週、平日の午前10時に6月に行なうセミナーの講師との打ち合わせのために、四ツ谷アトレの中にあるパン屋「Paul」の併設のカフェに行った。

店内に入った途端、何だか異様な感じを受けた。

なに???

店内を見回すと、談笑中のお客さんのほとんどが、グループは別々でもあるひとつの層であることに気づいた。

女性、30代から40代。控えめな色、デザインながらも高級そうで上品な服。やはり上品なバックに靴。醸し出す雰囲気も似ている。

なぜだかひと目で仕事をもっていない人たちだと分かった。

四ツ谷にはいくつか私立小学校がある。そこへ子供を送ってきたお母さんたちだ。多分だけれど、4月に入学したばかりの1年生のお母さんたちなんだろう。

お母さん同士の情報交換もあるのだろう。話は盛り上がって、ずい分長く店内にはいらっしゃったようだ。

きっと、こういう人たちを世の中では「勝ち組」って言うんだろうなぁ。

平日の午前中に、高級な服に身を包んで、お洒落なカフェでお茶をしながら談笑。

こういうのもよしだと思う。ひとつの生き方だから。

ひとつ気になるのは、皆さんが同じに見えたこと。同じような服と持ち物、髪型。

もともと嗜好が似ているからだとは思えないほど、余りに似ている。マニュアル通りなのか、人と違うとダメだというのか。

あまりに単一で少々悲しい。

単一といえば、「勝ち組」というのも単一の現われだと思う。勝ち負けを判定するには基準が必要だから、その基準を社会で共有していることが前提だ。

ビジネスの世界だったら、たとえば収益が基準として共有されていてもいいだろう。

でも人生にはいろんな「勝ち方」があっていいはずだ。自分が楽しかったり、やった!という達成感があったり、充実した時間を過ごしたり。それなのに、「こうならないとダメ」、「こうなることが全ての人たちの理想だ」とばかりに煽り、「この基準を満たすと勝ちですよ」として行動を制限する。

日本はとても息苦しい。

お母さんたちが同じように見えたのは、「勝ち組」としての基準を生きているからかもしれない。

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習いごと遍歴・私の場合

社会人になってから十数年経ちました。 先日、自宅の本棚を整理していたら、ずい分以前に行った習いごとで使った本が目に留まりました。

はて?私は社会人になってからどれだけの習いごとに手を染めたのかと思い起こしてみました。

英語、イタリア語、デッサン、会社法、デンマーク語、狂言(講義)、数学、ピアノ、フルート、リコーダー、テニス、水泳、太極拳、気功、コーチング、スポーツクラブ通い、そして現在の本を創るワークショップ・・・

書き出していて、くらくらしてきました。これで全部ではないような気がしますが思い出せません。1日の体験コースやセミナーを含めたら、もっともっとありそうです。

これに費やした金額を出したら、きっと私はげんなりするでしょう。私は、この費やしたお金や時間に見合ったものを得ているだろうか?

習いごとのなかには、仕事や収入に結びつくものもある。それは、投資したものが目に見える形で帰ってくることを期待している。

一方で、習いごとのなかには、それ自体を楽しむものもある。そこには充実した時間か感覚があるはずだ。

私は数々の習いごとから、何を得ていたのでしょうか?

思い出してみると、目に見える形で仕事や収入にも結びつけておらず、また、一部を除くとそれ自体を楽しんでもいなかった私の姿が現れてきます。

では、何のために?

一般的には、習いごとをするのは生活を豊かにするためと考えられそうです。収入にせよ、充実した時間にせよ。

それでは私の生活は豊かになったか? 答えはNOです。今、改めて考えてみて、私は習いごとをまったく別の目的のためにしていたようです。

1つには、自分の豊かさを実感するため。自分が、習いごとにお金や時間を使うだけの余裕があることを自分自身で確認する手段として、習いごとをしなくてはならない。まるで義務のように。

二つ目は、何となく「途上」という感じを得るため。習いごとをしていると、特に勉強といえるものは、自分が向上をしている感じを与えてくれる。今の自分より上に行こうとしている人であるという安心感が得られる。結果として実際に能力や技能が上がれば、本物の向上なのだけれど、ただ安心感を得るためのポーズのためにやっているから、そんなに効果はでない。

もう1つは、自分を演出するため。こんな勉強をしている私、こんな趣味をもっている私。そんな私と見て欲しい。自分がこう見られたいという衣装やアクセサリーと同じこと。 習いごとそれ自体をやりたいのではなく、別のことが目的になっていたから、面白みが分かることもなく、続きもしなかったんだと思う。

今からは、要らない衣装やアクセサリーは横に置いて身軽になって、そして要るもので生きていきたい。今の私には、自分でそれを見分ける目と、要らないものは要らないと言える勇気があると感じます。

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2007年4月24日 (火)

この治療、するのかしないのか決めるのは誰?

現在、治療は外科で受けています。

先月の診察の際、外科のドクターから、

「放射線の照射ができるかどうか、放射線治療科の先生に診察を受けてきてください。」

と言われ、予約をその場で取り診察を受けました。過去に同じ部位に放射線治療を受けているので、2度同じところに照射することは通常は行なわないため、まず可能性を確認するというものです。

放射線治療科のドクターは、

「照射は恐らく可能。ただし過去の照射記録を確認する必要あり。」

ということで、転院前の病院へ記録を照会し、今月の外科の診察を迎えました。

外科のドクターには放射線治療科からの結果は入っておらず驚きましたが、私からどう言われたかを伝えました。そして、今の私の病状で放射線治療を行なうことについて、外科のドクターの見解を確認したところ、次のような返答でこれには戸惑いました。

「普通は現時点ではやらない。」

「ただ、この段階でやった患者が、経験的にこれ以上の転移をしなかった例が多いように思う。」

「科学的には説明がないが。」

「普通はやらないが、患者が強く望めばやります。」

ここにはドクターの意見は感じられませんでした。決めるのは患者で、事実はこうで、僕は勧めているわけではないよ、そんな雰囲気でした。

一方、先月は、放射線治療科で診察を受けることに対し選択をするという雰囲気はなく、ドクターはこの治療をすることを勧めているのだと感じました。やった方がよいと。そこには、主治医としての意見があったように思う。

しかし、今回は勧めているのかすら分からない発言でした。

それなら、先月どうして放射線治療の話を持ち出したのでしょう。

患者は専門家ではない。

だから、ドクターから可能性のある治療を提示されないと、治療法があるのかすら分からない。

「こういう治療の可能性もある。ただし、普通はやらない。そして効果とリスクの可能性はこうだ。そこで、あなたが望むのであればやりましょう。」

提示された上で、選択をするのはあなただと言われるのは分かる。ここには少なくとも主治医として、可能性を提示したという意図も感じられる。

もしかすると、私がドクターのこの治療に対する見解を聞いたから、ドクターは自分の意見を引っ込めたのかもしれない。

私が確認をするようなことを尋ねなければ、患者が決めるのだといわないままことが進んだのかもしれない。

ドクターも大変なのだと思う。

評価が定まっていない治療を勧めて治療を行い、そして何か問題が起きたら、病院やドクター自身がリスクを負うことになる。

自分が決めるなんて考えていない患者も多いだろう。

だれが決めるのかが曖昧なまま、ことが進んでいく。

それが現在の日本の医療なのでしょうか。

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2007年4月22日 (日)

ブログ開始、まで。

本を創るワークショップの課題、「ブログを書いて、自分の文章を公にさらす」を与えられ、2ヶ月強。ずっと抵抗していました。

何に抵抗してたかを観察してみると、自分の枠が観えてきました。

 「最初から完璧にしなくてはいけない」

 「未熟なものを人前に出して、低くみられたくない」

こんな気持ちが抵抗を生んでいました。

かといって、それでは完璧に近づけるよう、未熟じゃなくなるよう、学んでいたかというと何もせず。ただただ、時間だけが流れていっていました。

これって、私のいつものパターンだ。

完璧にしなくてはできないとして、何も進めない。かといって準備や学習もしない。そして、進歩も失敗も結果もなし。

行動をして初めて進歩がある。いくら思いを巡らしていても、コタツに入ってお茶を飲んでいるだけでは何の変化もない。

ここに書いて、こんな自分が居ることを認め、そして、行動に移します。

 

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